私の原点 聞き役になることの意義を知った自分編

 はじめに

海の泡

今回は、「私の原点 聞き役になることの意義を知った自分編」です。「私の原点」シリーズは今回で最後になります。ここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございます。感覚の世界から解放され、本当の孤独の意味を知りました。そして、人との出会いに前向きになれました。

 

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私が人に会うことについて前向きになれた。そう思えるまで長い道のりがあったように思えます。限られた時間の中で、誰かに会って話を聞くということは一見して価値を見出すのは難しいかもしれません。

 

だけど、まずは言葉と向き合って、自分を知る。その後で他者の必要性が出てくる。社会に繋がるためには、社会を知る必要がある。社会を動かしているのは、一人一人の情動のようなものかもしれないと。一人一人の社会への思いは、説得という形で表出される。それが、実態のない社会を動かしていると思いました。

 

その瞬間から、一人一人のストーリーにもっと耳を傾けたい。聞き役になる意義を感じるようになりました。

 

言葉と論理と事物(目に見えるものと目に見えないもの)

世界にはこの三つしかない。言葉と論理と事物。この三つがあるから世界が成り立っていると信じています。事物だけの世界を想像してみると、こんな感じではないでしょうか。事物が永遠に横たわっている。言葉がないので、事物を区分することもできません。すべてが連続的で、同一の事物が存在します。

 

たしかに、全てが同じで、仕分けの必要がないから楽かもしれない。だけど、世界に横たわっている一つ一つの神秘や驚きを、表現できない。認知もできない。少し悲しい世界になるのではと。感覚では、それらをかろうじて味わうことはできるかもしれません。

 

言葉があれば世界を区分できるし、世界に色を着けたり、動物に名前をつけたり、すこしは整理ができるかもしれません。連続的な世界が非連続になって、世界をおおよそ把握ができます。

 

言葉によって自分の感覚を表現できるかもしれません。だけど、そのルールや決まりごとがないので、みんなが自分のルールで一方的に話している状態です。それでは、伝達が一方方向で、相互的なコミュニケーションができない。それを補う何か、尺度のようなものが必要になるはずです。

 

論理があればどうでしょう。論理とは、私の理解ではなんだか難しいもの。私には無関係のもの。そんな認識でした。ですが、論理とは「物事の法則のつながり」を提示してくれえる大事な考えだと気づきました。論理的思考力は、「2つの事柄のつながり(関係性)を正しく認識する能力」でもあります。つながりを正しく認識できると、物事を筋道立てて考えることができます。

 

ニュートンが発見した「law of universal gravitation 万有引力の法則」は全ての質量を持つ物体が相互に引き合っていることを証明しました。目の前のリンゴが木から落ちる現象は、隣町でも同じ法則でも落ちるし、地球の裏側でも同じ。リンゴに働いている力は月や惑星に対しても働いているのだと。

 

同じ法則を使えば、空間や時間を超越できる。目の前の事物に囚われず、世界を相手にできる。論理はそういう予感を私に与えてくれました。この広い世界で国籍、文化が異なる人と交流ができたり、生い立ちを超えて同じ土俵で思いを交換できる。やっと、今の世界を生きることができました。

 

論理の前ではほとんどの言葉は脇役になる。

論理について勉強するようになったら言葉は脇役だと気づきました。普段私たちは、言葉を最小単位にして、それに飾りを付けて自分の思いを表現していきます。相手の話を聞くとき、相手が話す飾りに耳を傾けがちです。

 

飾りにばかり意識を向けると、話がどこに進んでいるのかわからなくなります。自分は今どこにいるのか迷子になってしまっていました。

 

論理とは「物事の法則のつながり」。つまり、A点とB点を結ぶ筋道を示しています。だから、筋身を追ってゴールを探るべきではと思うようになりました。筋道のたどり方はたったの二つです。論理とは演繹と帰納があります。

 

帰納法→様々な現象から、一つの原理を見出す

演繹法→一つの原理から、様々な現象を説明

 

いろんな人の筋道を探ることで、一つの論理の意味が見えてくる。それを一つ一つやっていくこと。言葉を一度忘れようと思いました。筋道を追う。この一点に全神経を傾けるように努力しました。

  

筋道は多様な形で社会へとつながっている

必死に耳を傾けて、筋道を追うようになりました。そしたら、いろんな人が社会に対して説得していることに気づきました。自分の経験から社会に対して「こうしたい」という思いを必死にぶつけていました。あるいは、社会が要請することに対して自分の経験を活かしたいと必死にもがいていました。

 

自分という現象から、一つの原理を導き出そう(帰納的)と必死になっていたり、一つの原理を自分という現象で説明(演繹的)しようと。

 

聞き役になったら、一人一人説得の方法が違うことに気づきました。レトリックをたくさん使う人、経験をさくさん語る人、何かと比較して話を進める人、ジェスチャーを使って、イメージさせようとする人。

 

人の数だけ筋道の種類がある。だけど忘れていけないのは根底にロジックがある。もし何かの共通のルールがなければコミュニケーションは成り立たない。それが許されるのはロジックがあるからだ。改めて論理の大切さに気づきました。自分も論理を土台に、様々な説得方法を身につけるように努力してきました。人に会うだけ自分の引き出しが増えていく。こんな風な説得の方法があるのだと。

 

社会に対して、いろんな思いが沸々と出てきました。その思いを今度はいろんな人にぶつければ、社会と繋がれる。「生きる喜び」を感じました。

 

社会への思いが異なる理由

なんで同じ世界に生きているのに、みんな欲求の形や社会への思いが違うのでしょうか。それは、私たちは同じ世界に生きていますが、生きている場所や社会的状況は人一人違うからです。私たちのバックグランドの多様性が、社会への思いの多様性につながっていると思いました。

 

この人はどういうバックグランドがあって(どういう生い立ちで)、どういう問題意識をもって生きてきたのか。それらの問題意識を解決するために、こういう行動をしてきた。その人がこういう気持ちになって、こういう風に感じてきた。その思いをこういうロジックで説明している。

 

そんなことを必死に考えていると、頭で面白い現象が起こりました。相手の社会への欲求が私に強く突き刺さるようになりました。そして、目の前の人と同じ方向を見ることができるようになってきました。

 

欲求を受け止めて同じ方向を見る。社会を生きる私たちは、社会に対してなんらかのメッセージをもっている。それが些細なこともあれば、大きなものもある。対話のなかにもたくさんの社会にたいしての思いがつまっている。

 

相手を深く知ろうとする態度(何かを伝えたい筋道を探る)があれば、相手の社会に対する思いを嗅ぎとめることができる。それをキャッチすることができれば、相手の社会に対する欲求が見えてくる。最後に、それを受け止めることができれば相手と同じ方向を見ることができる。

 

まずは、相手の生い立ちを考え問題意識を共有する。思いを共感してはじめて相手と同じ目線を獲得することができる。たくさんの時間が必要だし、質問もいる。人と対話するのは、一度や二度では全然たりない。少なくとも思いを交換するには、相当の時間が必要になります。

 

新しい社会の見方が生まれる

僕は「万丈記」の冒頭の一説がすきです。

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

 

川の流れる水は同じ水をではない。絶えず流れている。水の泡はすぐできて、またすぐ消えていく。世の中に生きている人も川の流れや水の泡のようなものである。人々の出会いはも、水の流れや泡のようにはかないものです。会っては忘れ、記憶の中から消えていく。だけど、なんだかもったいないような気がします。川に流れている水をすくっていけば、何かを知れるのはないかと思いました。

 

私たち一人一人はとてもとても個性的な存在で一人として同じ存在はいない。であるならば、一人一人社会に対して考え方や見方が異なる。10人の意見を集約したり、100人の意見を集約されたものを集めてもぴんとこない。一人一人のストーリーに耳を傾けて同じ方向を向く。それをコツコツと積み上げていったら、少しず世界の見方が変わっていきました。

 

社会を動かしているのは一人一人の情動のようなもので、いろんな人に出会って、彼らの物語を100%受け取りたいと思いました。僕が本気で聞き役になろうと思った瞬間でした。