はじめに
今回は、東欧の民衆教育から学ぶ日本のコミュニティ・スクールの可能性について考えていきたいと思います。導入するメリット・課題とは何でしょう?実は、以前から東欧の教育メソッドには興味がありました。日本旧来の知識詰め込み形の学習とは間逆の、考える力を付ける教育観です。
以前は東欧の教育感の本質は実は理解できていませんでした。あるブログをきっかけに、東欧教育の本質にたどりつきました。それは、「生きた言葉」を大切にする民衆教育でした。
一方、日本やアメリカは順位を落としました。実はアメリカの各メディアは、今回のレポートにネット中毒による理由を挙げていました。アメリカにはネットをはじめ多くの中毒の誘惑がある。それが、幸福度ランキングの順位を下げているはずだ。
ネットの普及によって、「人生の選択の自由度」が広がっているように思えますが、裏を返せばネットでしか自己実現できないような世の中になっているのかもしれません。
その迫り来る社会のうねりが、中毒になってあらわれていたら恐ろしいです。
東欧の民衆教育の原点
東欧の民衆教育の原点は、19世紀にさかのぼります。聖職者、歴史学者、詩人で教育者のニコライ.F.S.グルントヴィが今後国力をあげるためにはどうすれば良いのか必死に考えました。最貧層である農民のためにも新しいタイプの学校を作り、エリート層と一般民衆の間のギャップを埋めたかったのです。
彼の構想する新しい学校は、書物や一方的な講義形式による学習ではなく、対話や討論を通しての学習を主体とする「生活のための学校」であった。現代の「生きる力」を養う学校と似ている部分があります。
これらの運動に刺激されるような形で、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドと同様の学校が設置されていきました。
フォルケオプリュスニング(民衆教育)
デンマークには、大学とは別にフォルケホイスコーレという18歳以上であれば、いつでも入学できる学校があります。学生たちは、そこで本を読んだり、授業を受けたりするのではなく、語り合いをします。
互いに生きた言葉で対話することを通して学び合い、他者とどうやって共生していくのか本気で考えます。その他者と時間を共有することで、自分だったら何ができるのか。どうやって社会に貢献してくのかじっくり考えていきます。
体を動かしたり、歌を歌ったり、同プログラムでは、体験することが大切にされています。学校には広々としたラウンジや食堂のような場所、クラスメイトとディスカッションできる空間がたくさんあります。
詳しくは下記のブログをチェックしてみてください。
今を生きることを否定しかねない日本の教育
日本の学校に、安心してゆっくり語り合いをできる時間と空間は用意されているでしょうか? 競争主義によって画一的な価値観が生徒にプレッシャーを与えているのが現状でしょう。例えば早期英語教育は、国力を上げるために英語の勉強を早めています。たしかに、英語力を上げることにメリットはたくさんあります。ですが、生徒が今やりたいことの時間を奪っているのも事実です。
日本の教育は先進的で素晴らしいメソッドと技術があります。したがって、将来のために何ができるのか考えがちになっています。今、ここでできることが後回しになって将来の役に立つことが中心に話が進んでいきます。一人の生徒が今何を感じて、何を伝えたいのかはあまり重要ではなくなっているようです。
どんな世の中になるか、不安でしょう。だからプログラミング必修化になりました。
不安な時代だからこそ、世界で必要とされる人材を育てる。
そこには生徒の「生きた言葉」はありません。
無機的な冷たいデジタルな信号だけが打ち込まれはじめています。
生徒参画型のコミュニティスクールの模索
日本にも、デンマークのような学校を作ればよいでしょうか。
実際には難しいでしょう。大学に進学するかわりに、フォルケホイスコーレに進学
することは今の日本の社会では就職のチャンスを奪いかねません。
そのヒントに、学校中心型から地域中心型があるかもしれません。
日本はどちらかというと、すべて学校にまかせる学校中心型の教育です。
一方、東欧は地域中心型のスタイルです。
出典:http://very50.com/blog/?p=124
そこで注目したいのは、学校と地域を結ぶ、日本型のコミュニティスクールです。
完全な学校中心型、地域中心型ではなく、その両者をつなぐ役割を担うのが、
日本のコミュニティ・スクールの使命ではないでしょういか。
コミュニティ・スクールとは保護者や地域住民が学校の運営に積極的に参加する
新しい学校のありかたです。様々な問題や導入の障壁はありますが、地域の特色が
学校に反映されるのが最大のメリットではないでしょうか。
続々と、「地元の自然を守る」「地域の抱える社会問題を解決する」「地域の歴史や文化を継承する」などのスローガンを挙げるコミュニティスクールも出てきています。
コミュニティスクールは、保護者や地域の住民が一緒になって学校をつくっていく
学校目指す。そうすることで、学校の色や地域社会と学校がどう関わっていくのか
明確になる。
例えば、~市はこういう特徴をもっているから、~のような学校をつくろう
生徒はその具体的な地域でどのような社会と関わるのか考えるきっかけとなります。
地域社会で体験したことや経験をもとに自分のやりたいことを模索していく。
そこには、過剰に将来に向かうベクトルはなく、今のこの地域で自分がどうあるべき
か、仲間と語り合うことで、自分ができること、したいことが見えてくる。
その積み重ねが、生徒にとって生きる力になるのかもしれません。
幸福のありか
自分が生まれ、育った故郷に帰るとほっとします。
愛着があるからです。杜の都、仙台は自然が豊かで、学校では自然の保全やを大切にし
てきました。子供の頃にそういった活動をしたことで、今は仙台を離れていますが、地
域に貢献したいとか、どうあるべきか他人ごとではないような気がします。
自分ごとのように地域を大切にしているから、帰ってくると安心する。
地域社会で自分がいかに貢献するかもっと考えたかった。そうすれば、もっと恩返しが
できたのかもしれない。
「人生の選択の自由度」「社会の寛容度」の低さが、日本の幸福度を下げていることを
さきほど確認しました。
学校では知識を学び、地域社会ではその知識を自分の言葉で語る。
そうすることで、自分が社会にどうって貢献していくのか、関わっていくのか見えてく
るかもしれません。そこには無限の可能性が広がっているはずです。
画一的な知識詰め込み教育で、偏差値が重視される学校では、生徒の選択の自由度が低すぎます。その圧迫感のある社会こそが、社会の寛容度の低さの現れかもしれません。
本当の他者は学校にはいません。自分が何かを経験して、体験してなにかを主張したい。その思いをぶつけることが、他者を意識するスタートなはずです。
学校と地域を行き来することで、そのような他者を見つけ自分の言葉を育んでいくのは
どうでしょうか。必死になって、他者に自分のオリジナルの経験をぶつけるながら、
もがき苦しんだ瞬間に「生きた言葉」がぽっとでてくるのではと。