はじめに
「言葉とはなんだ」という問いを自分自身投げかけてから、全てが変わりました。今回は、私がいかに「裸の言葉」に出会ったのか紹介していきます。次回、私が言葉の力を信じるようになっていかに人の話を聞く喜びを味わうようになったのか綴っていきます。
言葉とはなんだ。
そんなものは分かりませんでした。言葉なんて必要ない。そう言って許されるぐらい、言葉は別に僕にとってどうでもよいものでした。言葉とは?という問いを発しなくても、生きるうえで何の問題もない。そういう思考が頭を支配していました。
言葉とか文章とか、すべて他の人が語るべきものだと思っていました。別段、語る必要はないと思っていました。感覚的に生きられない人がしょうがなくすることだと思っていました。僕は何も表出しなくても、与えられたことはしっかりできるし、空気も読める。上手く生きることができていました。
ただ、もはやそんなことは言っていられない事態になってしまいました。今は、全く持ってうまく生きられていない。こんな状況で、前に進める必要がない。希望を持って明日を生きられる要素はどこにも見当たらない。誰かを信じる以外に。僕はカリスマを見つけ、その人を信じ、その人の全てを生きることになります。その人に出会って、僕は裸の言葉に出会う文化・家族・共同体・所属・友達・学校・損得・譲歩・建前・日本・男女・欲望などあらゆる鎧を脱ぎ棄てた言葉に出会いました。
それまでの読書
これまで、感覚を頼りに一人よがりで生きていました。自分が思っていることが正しいことで、自分が受け入れられないことは、相手が間違っていると。冷静に活字を追うすらできませんでした。どうしても好きだ、嫌いだとかいう感情が交じってしまいます。
達が悪いのは、その難しい言葉を感覚で処理してしまうということです。その処理している自分はなんだか絶対に否定したくない。だから、前に進むことができませんでした。優等生の僕が、僕の思うことが間違っているはずがない。そう思ってなかなか前に進むことができなかったのです。というか自分が間違っているという現実を受け入れられない。それは、とてつもなく難しいことでした。体験したことがありませんでしたし、それを乗り越えるすべも知りませんでした。
自分の経験や体験と言葉を切り離すことができませんでした。誰かが書いた活字も自分が書いた文章もすべて連続的で同列の言葉と思っていました。言葉は誰が語ろうと、どう語られようと同じものだという認識でした。なんの緊張感ももたずに相手の言葉に向き合っていました。
言葉というものは、単語を裸として最小単位から計算して書き手や話者が話す際に、様々な飾りを着せることですごく個性的なものになる。そこには、かならず書き手や話者の意図やロジックがあります。だから、読み手はそれに細心の注意を払って裸の単語を出発点にして、その細工を読み解かなくてはならない。そこには、自分が入り込む余地がない。それまでは、全くそのこと気づくことができませんでした。
飾りを脱がすことの意義
言葉とは、先ほども述べましたが至極個性的なものです。人から借りた言葉を使っても、自分の思いを表出することはできません。そう信じることができないと言葉は自分に力をあたえてくれません。借り物の言葉では自分を語れません。そのたまめには、言葉についている飾りを剥がして裸の言葉を見つけなくてはなりません。
裸の言葉を見つける作業は本当に大変です。そもそも、なんで飾りを剥がすのに苦労するのか。無理やり引っ張って脱がしてしまえば良いと。しかしながら話はそう単純ではありません。実はもっと複雑です。
まず、剥がすためにはその言葉がどんな服を着ているのか、どういう用途の服を着ているのか知る必要があります。自分の頭にある服しか脱がすことができませんので、自分が言葉と対峙する前にはあらゆる服と用途を確認すべきなのです。この文法という飾りを疎かにすると、裸の言葉に一生たどりつけません。
言葉と論理と事物
何かを剥がすということは、剥がした代わりに何かを与える必要があります。何かを身にまとっている言葉はその周りにくっついているものがあるから安定しています。もし言葉から飾りを奪い取ってしまったら、言葉は急に不安定になって存在が難しくなります。その言葉と自分が自然でいられるようにしなくてはなりません。そこに、ロジックという書き手、話し手が示した筋道が見えてきます。言葉と論理と事物というシンプルな構図が浮かび上がってきます。